石仏街道

戦が続いた室町時代末期には、余野十三仏をはじめとした多尊石仏が多く造立され、地域周辺に今も遺されています。法性寺にも大阪府指定重要文化財となる石仏があります。
お寺にお参りしながら歴史に想いを馳せ、美しい里山の空気を胸いっぱいに吸い込んでは如何でしょうか。

法性寺の石仏など

かね引き地蔵尊(石仏)

法性寺の石仏

石英閃緑岩(せきえいせんりょくがん)の表に大きく蓮華座を刻み、上に舟形を掘り地蔵立像を厚肉彫りしている。
右手に短い錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を捧げ、衣紋は左右相称だが、像容はよく整い写実的であり、像全体から受ける感じはゆったりと悠揚としたものである。連弁の形もまるく大きくふくらみ、典型的な鎌倉時代の形式がみられる。
銘文は像の光背にあり、右に「正和三年甲寅卯月」(1314)、左に十五日願主平末方ム」とある。鎌倉時代は石造美術が最高の造形美に達した次期である。
本町における鎌倉時代の在銘文化財は、大円釈迦堂の乾元二年(1303)銘のある阿弥陀三尊笠塔婆とこの石像2基で、この点からも本町の貴重な文化財である。

豊能町教育委員会・豊能町観光協会より

 

 

法性寺にまつわる民話

法性寺(ほっしょうじ)の影ひき地蔵さん(切畑)
影ひき地蔵とか金ひき地蔵とか言われる法性寺のお地蔵さんは、昔は今のお寺から五百メートルくらい上の、南月見山の頂上におまつりしていました。山の上からはるか西南の方には、尼崎の海も見えます。ある日のこと、尼崎から漁師たちがやってきて「漁をしようとしても、お地蔵さんから光がさして魚が逃げてしまいます。お地蔵さんをもっと下におろしてください。」と頼みました。そこで村の人たちはお地蔵さんを、お寺の真上の中谷山までお移ししました。
しばらくすると、また漁師がやってきて、「まだお地蔵さんが光って困ります。もっとおろしてください。」と頼むので、今のところへお移ししました。
すると尼崎ではたくさんの魚がとれるようになり、漁師さんたちはお地蔵さんを下ろしてもらったお礼に、切畑・中の西へ運上を持ってくるようになりました。
お地蔵さんは、今も檜の影で、昔ままのおおらかな美しいお姿で、静かに立ち続けておられます。
※運上:ここではお礼のお金の意味

豊能町教育委員会刊行「豊能の民話」より

石風呂(石槽)

切畑の旧走湯天王社の石風呂(石槽)と伝えられ、その後法性寺境内に移された。当地には、もと同形のものが三基みられ、人々が厄病除災の為、僧侶の斎戒沐浴、共同浴場として湯あみに用いたという諸説がある。
鎌倉時代の作と思われる湯船状で、その周囲に薬草を摺り潰したといわれる無数の杯状の窪みがある珍しいものである。内側底面には水抜き穴があり、そこに溝がつけられている。

豊能町教育委員会・豊能町観光協会より

豊嶋安次郎の塚

相撲力士の碑で、当地では大阪藤嶋内の絹川親方に属する者が多かった。
この碑はその門弟たちが建立したものである。

豊能町教育委員会・豊能町観光協会より

近隣の石仏など

切畑大円観音堂

大円集落センターに隣接する観音堂は、信仰篤き地域の人々によって常に美しく清められ、堂内には凜としたお姿の観音様、周囲にはいくつかの石仏・石塔が配置されています。

切畑大円観音堂
切畑大円観音堂
観音堂周囲の石仏・石塔
観音堂周囲の石仏・石塔

大円下所多尊磨崖仏

自然そのままの岩壁や露岩に直接彫りくぼめ造立された仏像を磨崖仏(まがいぶつ)と呼びます。そのため殆どが他の場所に移すことができず、雨風にさらされながら独特の姿を保っているものが多くみられます。

豊能町観光協会webサイトより

西野多尊石仏

石英閃緑岩に頭部山形の上部に阿弥陀三尊、その下部に15体の坐像が彫られている。弥陀如来は来迎印のようで、頭の周りには放射光が掘られている。下部4段の坐像は同型同大の円頂合掌像で多分供養者と考えられる。阿弥陀三尊の右肩に「為逆修」左肩に「天正三乙亥年八月三日」と刻まれている。本町に所在する多尊石仏7基のうちの一つ。

豊能町観光協会webサイトより

余野十三仏

余野十三仏

「十三仏」は仏様の数ではなく余野の小字名で、表面上半部の三尊は、主尊が錫杖を持ち、両脇侍は合掌しています。下半部には上段下段合わせて17体の地蔵立像が並んでいます。裏面にも三尊像が刻まれています。

豊能町観光協会webサイトより

 

 

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